生療法の行方
人はいつか死ぬものである。
最後を苦しませたくないと思うのは自然なことだ。
けれど、苦しみをすべて取り除けば、それで生きられるとは限らない。
苦しみに克つ努力が、わずかに生を残すこともある。
今際の際にある老女を見て、治療者は彼女に少しばかりの気持ちと思いやりを与えた。
ほんの少しだった。
傍らで見ている者には、それがひどく冷淡なことのようにも見えた。
そんなわずかな気持ちで、人の生死がどうにかなるものでもない。
してあげられることがあるなら、もっと大きく。
苦しんでいる者を前にして、なぜ出し惜しみをするのか。
しかし、生療法とはそういうものだった。
人から与えられた力だけで生きるのではない。
与えられた微少の気持ちを足場にして、本人が苦しみに克つための戦いをする。
- まだ息をしようとすること。
- 水を飲もうとすること。
- 目を開こうとすること。
- 自分で明日へ向かおうとすること。
そのわずかな抵抗を残す。
それがセオリーである。
老女を大切に思う男がいた。
そして同時に、治療者のやり方を忌々しく思う男でもあった。
もっと大きな気持ちを与えればよいではないか。
力があるなら、もっと与えるべきだ。
老女が苦しそうに呼吸をするたびに、男の苛立ちは大きくなった。
「こんなことなら、おれにだってできる」
「おれの方がたくさんやれる」
治療者は止めなかった。
男は老女のそばへ行った。
自分がどれほど彼女を大切に思っているのか。
どれほど助かってほしいと思っているのか。
どれほど苦しまないでほしいのか。
それを証明するように、男は多量の思いを彼女へ与えた。
惜しまなかった。
治療者の与えたものより、はるかに多く。
老女の顔から苦しみが消えた。
強張っていた身体から力が抜けた。
呼吸も静かになった。
男は、自分の方が正しかったと思った。
やはり、たくさん与えればよかったのだ。
これほど簡単なことを、あの治療者はなぜしなかったのか。
やがて老女は、安らかな顔のまま息を引き取った。
男の対抗心と、嫉妬、そして思い上がりによって、大切な人を少し早く亡くしたのかもしれない。
けれど、それだけをもって男を責めることもできない。
彼のしたことは、紛れもなく献身だった。
楽にしてやりたかった。
助けてやりたかった。
自分にできるものなら、惜しみなく与えたかった。
その気持ちに嘘はない。
その責任を問う者はいない。
治療者もまた、自らの義理と責任を果たしていた。
生きるために必要なものだけを与え、それ以上を与えなかった。
男もまた、自分なりの義理と責任を果たした。
持っているものをすべて差し出した。
どちらも、彼女を大切に思っていた。
ただ、思い方が違った。
なにということはない。
老女は楽になった。
多量の思いを受け取り、苦しみから解放され、感謝の中で息を引き取った。
「楽にしてやりたい」
男の願いは叶った。
そして、
「生きてもらいたい」
治療者の目的は果たせなかった。
戦うために、微少の気持ちしか与えない。
楽にしてやりたい一心で、多量の気持ちを与える。
少ないことが冷淡であるとは限らない。
多いことが愛情であるとも限らない。
けれど、多く与えた者の気持ちが偽物だったとも言えない。
だが、強く抱きしめすぎて、こわすことはある。
その対比について、
あなたはどう思いますか。